坪内稔典さんと正岡子規と俳句

 

新聞は朝刊しか読んでいないが、勧誘が多いなか毎日新聞の購読に落ち着いてから、もう10年以上はたったと思う。

われわれ貧乏人夫婦は、校正というシガナイ仕事で糊口(ここう)をしのいでいる。一日の大半は文字を読んでいるので、スミからスミまで新聞を読んでいる時間はない。とくに眼の疲れやすい女房ドノは、テレビ欄くらいしか見ない。

小生もざっと見出しに目を通すくらいのものだ。しかし、「余録」と「社説」はほとんど読んでいる。これで世の中の大ざっぱな動きを知ろうというのだから、我ながら「横着(おうちゃく)きわまりない」とは思うのだが…。

 

朝のあいさつ

一日も欠かさないのが、小さな囲み記事の「季語刻々(きごこっこく)」である。小生にとっては、エルガーの「愛のあいさつ」ならぬ「朝のあいさつ」といったところだ。

【YouTube エルガー 「愛のあいさつ」  奥村  愛】

エルガーは、第2の英国国歌ともいわれる、かの有名な「威風堂々(いふうどうどう)」の作曲者。彼は威風堂々の作曲により、英国国家に貢献したとされ、「ナイト(騎士)」の爵位があたえられた。「サー・エルガー」となったのである。

「威風堂々」と「愛のあいさつ」の作曲が同一人物によっておこなわれた。こういう例は音楽の世界では、珍しくはない、よくあることだ。やっぱり音楽は楽しい、と思う。

 

季  語  刻  々

さて、「季語刻々」についてである。季語刻々は坪内稔典さん(下の写真)によって日々書き加えられている。

俳句は、その季語によって春、夏、秋、冬と四季に分類される。稔典さんによって選び出された秀句が、一日一句だけ載せられる。さらに俳句は、詠まれた時代によって、「」と「」に振り分けられるようだ。

この分類は、小生のごとき俳句の素人(しろうと)にとっては、かなりムズカシイと言える。なぜなら、一般の雑誌・新聞に載る俳句以外、いわゆる俳句仲間で編(あ)んだ俳誌や句集などを、ほとんど手にした経験がないからである。

そこで小生は、とりあえず「」とあるとホッとする。そこには、正岡子規をはじめ、その高弟の高浜虚子、友人の夏目漱石。当然のことながら、与謝蕪村、松尾芭蕉、小林一茶。そのほか石田波郷、中村汀女、寺田寅彦、芥川龍之介、日野草城、北原白秋、久保田万太郎・・・挙げれば切りがない。名前だけで、どんな俳句であるかも、大半は忘れてしまっている。学校で習ったはずなのに…である。

杉田久女(すぎたひさじょ)の句に出会うとうれしくなる。久女は小倉の人で、わが母校・福岡県立小倉高等学校が小倉中学であった明治の時代、名前は失念したが、同校の美術教師の奥さんであった。俳句の才能を高浜虚子にみとめられ、俳句作りに夢中になる。虚子を崇拝・敬愛するあまり頭がおかしくなり、しつこく手紙を書いたりして、虚子からは疎(うと)んじられるまでになった。たしか精神的に不安定になり、悲運な最期であったように記憶している。

小生は田辺聖子(今年の6月に亡くなった)著の『花衣(はなごろも)ぬぐやまつはる紐(ひも)いろいろ』を読んで、その全容を知った。久女が英彦山(ひこさん。福岡県田川郡)に吟行(ぎんこう)したときに詠んだ「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま」は、やはりスケールの大きな名句だと思う。

」のなかにはいる俳人の名前についてはマッタク知らないと言ってもいいが、ときどき富士真奈美(女優)や鷹羽狩行(著書を読んだ?)などの知った名前に出会うとホッとする。坪内稔典氏の夫人・陽山道子さんの句も、ときどき顔を出す。稔典さんが丁寧に解説してくれるので、よくわかる。

それにしても、夫婦そろっての俳句好きである。加山雄三ではないが、「ボカァ幸せだなあ」と稔典先生は思っているのではなかろうか。ウラヤマシイ!

10月1日、「」に稔典さんが取り上げた句は、次の俳句である。

じてんしゃでいなごをふまずこいでいく (森永  楓菜)

目からウロコの思いである。ナント素直(すなお)なイイ句であろうか。稔典さんの言うところによれば、作者は作句当時、小学5年生 。稔典さんも小学生時代、イナゴを捕まえてフライパンで煎(い)って醤油をかけて食べたそうだ。彼もまた、かなりの「やんちゃ坊主」だったのでは、と思う。

この句のもつ若さが、なんとウラヤマシイことか…。この日はちょうどワレワレ夫婦の51回目の結婚記念日であったから、とくに心に残り、印象がつよい。

ちなみに、最近の季語刻々を二つばかり挙げてみると、次のようになる。小川軽舟(おがわけいしゅう)という俳人は、毎日新聞俳壇の選者で、名前をよく見かける。江崎さんとはたぶん、初対面だろう。いずれも「」に分類されている。それにしても、稔典先生の説明はわかりやすく温かい。日本語の美しさも日々感じることができシアワセである。

 

ウイキペディアによれば、坪内稔典(つぼうちねんてん)さん。「ねんてん」は俳号、本名は「としのり」である。小生は1940生、坪内さんは1944年の生まれだから、4歳年下ということになる。

京都教育大学名誉教授。「船団の会」代表。研究者としての専門は日本近代文学で、とくに正岡子規(まさおかしき)に関する著作・論考が多い。

愛媛県西宇和郡町見村九町(現在の伊方町)の生まれ。愛媛県立川之石高等学校、立命館大学文学部日本文学科卒業。同大学院文学研究科修士課程修了。園田学園女子大学助教授、京都教育大学教授、京都教育大学附属京都中学校校長、佛教大学教授などを歴任。

途中を省くが、担任教師の勧めもあって、高校時代から句作をはじめる。1976年、若い俳人の拠点として「現代俳句」を創刊、1985年まで20集を刊行した。同年、会員制の俳誌「船団」を創刊、第5号より「船団の会」代表を務める。

大学時代はパチンコに勤(いそ)しみ、その合間に正岡子規などを読むような生活を送っていたが、学生結婚を機に、本格的に子規研究をはじめた。子規研究のほか、子規の友人で俳人でもあった夏目漱石(なつめそうせき)に関する研究でも知られる。

ウイキペディアには、坪内稔典さんの各賞の受賞記録、著作の書名その他、氏の著名な俳句などもあるが、ここでは省かせていただく。

 

正岡子規については10年くらい前に、『評伝 正岡子規』(柴田宵曲著)と『正岡子規 言葉と生きる』(坪田稔典著)を読んだ。もうほとんど忘れたが…。

 

数年前、NHKが司馬遼太郎の『坂の上の雲』をテレビ化して放映した。製作には2009年11月から2011年12月まで、足掛け3年を要する大型ドラマであった。

日露戦争を土台にしたドラマだが、各所の戦闘場面がすさまじかった。例えば二〇三高地における日本陸軍の大苦戦。「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」にはじまる日本海海戦における帝国海軍のロシア・バルチック艦隊殲滅(せんめつ)。秋山好古(よしふる。阿部寛が演じた)・秋山真之(さねゆき。本木雅弘)兄弟の活躍に熱狂したものだ。

しかし、小生の心にイチバン残っているのは、香川照之(かがわてるゆき)演ずるところの正岡子規と、兄思いの妹・律(りつ。菅野美穂〈かんのみほ〉が演じている)の話である。二人の演技は、このドラマにおいて蓋(けだ)し出色(しゅっしょく)であると考えるが、いかがなものか。

香川照之(上の写真。ウイキペディアより)はいまや、九代目 市川中車(くだいめ いちかわ ちゅうしゃ)を名乗る歌舞伎役者である。彼は東京大学文学部卒。2010年3月、映画『劔岳 点の記』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した。映画もよかったが、香川の将来が大いに楽しみである。

稔典さんの本としては今年3月、『坪内稔典百句(稔典百句製作委員会編)』を買った。しかし、まだ腰巻き(書籍の下部に巻いてある紙=帯紙)をつけたままで開いたこともない。面目(めんぼく)ない。お恥ずかしい限りである。

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坪内稔典さんが語る正岡子規(NHKテレビから)

だいぶん前のことだが(2019/3/6)、NHK BSで「偉人たちの健康診断 『正岡子規 痛いの痛いの飛んでいけ』」という番組が放送された。とても面白かったし、勉強にもなった。

出演者は、司会のNHK渡邊あゆみアナウンサー、子規研究家の坪内稔典、タレントの関根勤、杉田かおる、カンニング竹山、そして医学ジャーナリストの植田美津恵(愛知医科大学客員教授)の5人である。

杉田かおる(写真)は、「武田鉄矢の金八先生」の昔からの女優である。

彼女は、ここ20年来、母親のCOPD(慢性閉塞性肺疾患)の看病で大変だったらしい。COPDは、喫煙習慣を背景に中高年に発症する生活習慣病である。彼女は2018年、健康マスター名誉リーダーに任命された。

 

正  岡  子  規

ウイキペディアによれば、正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉~ 1902年〈明治35年〉9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)とあらためた。

俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。明治時代を代表する文学者の一人。死を迎えるまでの約7年間は結核(脊椎カリエス)をわずらっていた。

喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。

稔典さんによれば、ホトトギスが鳴いている時に口の中をのぞくと、赤く見えるそうだ。このことが喀血を連想させるため、肺結核を象徴するものとなった、と言う。明治の時代、結核には、これといって治療薬もなく対処療法もなかったので、「不治の病(ふちのやまい)」「死病(しびょう)」と恐れられていた。

【YouTube マスカーニ 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」から間奏曲 (森麻季が歌っている)】

 

青雲のこころざし〉 「末は博士か大臣か」と明治時代の青年の多くが望んだように、子規も政治家をこころざし、1883年(明治16年)に上京、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学した。出身地は愛媛県松山市花園町である。

正岡子規は熱心に勉強にはげんだ。成績は良く、夏目金之助(漱石の本名)には及ばなかったが、ほとんど同じくらいであった。彼もまた多くの成年男子と同様、立身出世を夢見ていたに違いない。

〈肺結核を発病する〉 子規は21歳のとき、肺結核を発病し喀血(かっけつ)する。稔典さんの話のように結核は「不治の病」であるから、とうぜん子規は「あと何年生きられるか」と考えた。長くない命ならば、好きなこと(俳句)を、やりたいだけやろうと子規は決断した。そして大学を中退した。

下の俳句が子規の作であることを知らない人はまずいないだろう。稔典さんによれば、子規が生涯に詠んだ俳句の数は25,000首にのぼる。そのうちで最も有名な句である、という。

しかし稔典さんは、これはホントウは法隆寺ではなく、東大寺で詠まれたらしいと言う。東大寺では、大仏のイメージが強すぎて句のジャマをする。法隆寺にあらためたことで、傑作としてミンナに受け入れられた、と言う。

今年になって、わが家でも何度か柿を食べた。もうよく熟れていてうまかった。ワレワレ夫婦も果物は大好物で、バナナは毎日欠かさず食べる。小生はミカンも好きで食べるが、女房は虫歯にしみると言って食べない。残念なことだ、アンナにうまいモノを…。(柿の写真はヤフー画像から)

〈痛いの痛いの飛んでいけーー痛みの緩和〉 子規の肺結核は脊椎カリエスへと進行し、子規はその痛みとの闘いに明け暮れた。まさに激痛であった。彼は、号泣し絶叫した。その痛みを忘れるために、子規はイロイロと工夫をこらした。

キンギョ鉢にキンギョを10匹ほど入れてその美しさに見とれたり、庭の草木の生長のことを思ったり、妹(律(りつ))の悪口を書きつけたりした。もっとも、稔典さんに言わせれば、その悪口は憎しみから出たものではなく、健康的な悪口であった。

とりわけ、包帯を取り換えるときの痛みは尋常(じんじょう)でなく、子規の泣きわめく声は隣り近所に鳴り響いたという。近所の人は、「また正岡さんちで・・・」と心配した。子規は「いっそのこと、死んでしまいたい」と思ったにちがいない。それほどの激痛であった。

〈食べるということ〉 子規は若いころから、よく食べた。ウドンを食べた後、ソバ屋にハシゴしてまた食ったりは平気であった。金之助(漱石)の家に下宿していたとき、昼になると勝手に「うなぎ屋」から出前してもらい、ムシャムシャ食べたらしい。その代金は、金之助に「キミ、払っておいてくれたまえ」。これには閉口(へいこう)したと、漱石は述懐している。今ではウナギは高価になり、ワレワレの口にめったに入るものではないが、当時でもきっと高かったにちがいない。

友達どうし集まって、「闇鍋(やみなべ)」なるものも、遊びでよくやった。これは、各人がそれぞれ思い思いのモノを持参して入れるのだ。なかには大福餅(だいふくもち)を入れるヤツもいて、いったいドンナ味の鍋になったのやら…。

子規は自分が結核であったので、友達といっしょに食べるとき、気遣いや心配もしたが、そんなことを気にする友は一人もいなかった。これがホントウの友情というものではあるまいか。

とにかく、子規は食べることが大好きであったらしい。病気になってからは、毎日アンパンをかかさず食べた。稔典さんもアンパンが好きで、よく食べるそうだ。子規に影響されたか(?)。

稔典さんは、「食べられる」ということは、子規にとって「生きていることの証(あかし)」ではなかっただろうか、と言う。

〈子規の死〉 9月19日は正岡子規の命日である。明治35年9月18日、子規は、どれも糸瓜(へちま)を詠んだ辞世の句を三つ、自ら筆を執って書きつけた直後に意識を失い、翌19日の未明に息をひきとった。まだ36歳であった。

その辞世三句とは、画板に紙を貼った、その中央にまず、「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」

次いで紙の左端に「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」

さらに右端に「をとヽひのへちまの水も取らざりき」

ここまで書いて完全に力が尽き、あとは絶命まで目が覚めなかった。

糸瓜(へちま)は子規にとって馴染みのある植物。ヘチマの蔓(つる)を切って液をとり、飲むと痰(たん)が切れる、咳(せき)をとめるのにいいとされ、子規の家でも庭にヘチマを育てていたのである。

 

以上は、酔流亭日乗さんのホームページ「正岡子規と糸瓜(へちま)」の丸写しである。記して謝意を表する。

 

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『吾輩は猫である』

これもNHKテレビだが、「夏目漱石の妻」というテレビがあった。主演の漱石の妻・鏡子(きょうこ)を尾野真千子、漱石(金之助)を長谷川博己が演じた。尾野も長谷川も演技のうまさでは定評がある。猫の名前は知らないが、このドラマが抜群に面白かった。

【夏目漱石夫妻と猫。ヤフー画像】

イギリスに英語研究のために文部省の命をうけ留学した漱石は、勉強が過ぎたためか、帰国後ノイローゼ気味であった。夫人の鏡子、子供たち、女中は、そのため大いに悩まされていた。

イギリス行きの旅客船の上で、漱石は

秋風の一人を吹くや海の上

という句を詠んだ。漱石はみずから英国留学を望んだわけではなかったが、鏡子の父(高級官吏)の斡旋(あっせん)によるもので、断わることができなかったのだ。

この句は、ロンドンから鏡子への手紙に添えられたものだが、漱石の「孤独感」のようなものがにじみ出ているようで切ない。

 

帰国後のある日、高浜虚子がやってきて漱石と話をした。漱石が「どうも頭がスッキリしない」と訴えると、虚子は「気分転換に『ホトトギス』に何か書いてみては」とすすめる。

ちょうどその頃、漱石の家に一匹の猫(ねこ)がどこからか迷い込んできていた。漱石の機嫌がよかったせいか、「せっかくだから、置いてやったらどうだ」と言った。妻の鏡子、子供たち、女中までもが大喜びした。猫は夏目家の一員として飼われることになる。

夏目家に迷い込んで住み着いた野良の黒猫は、漱石の妻・鏡子から「福猫(ふくねこ)」として可愛がられていたという。

かつて欧米では黒猫は不吉の象徴とする迷信があり、一部の国ではその傾向が現在も続いている。 しかし近代以前の日本では、黒猫は「福猫」として魔除けや幸運、商売繁盛などの象徴とされ大切にされてきた。

漱石(金之助)のノイローゼも、いくぶん良くなって明るくなった。そして、夜分なにか書き物をしていた。

虚子が再び漱石をたずねたとき、漱石は「こんなものを書いてみたんだがね。キミひとつ読んでみてくれないか」と虚子に言った。虚子は声に出して朗読をはじめた。テーマは迷い込んだ猫の目を通して見た、「人間観察」である。

鏡子が、お茶を出そうと部屋の前にきたとき、なかから虚子の朗読の声が聞こえた。鏡子はお茶を出すことも忘れ、聞き入った。あまりの面白さに、鏡子はその場で笑い転げた。

このことをキッカケにして、夏目漱石の不朽の名作『吾輩は猫である』が誕生したのである。

それ以後、夏目漱石は小説家の道をひた走り、「日本の文豪」と呼ばれるまでに大出世をとげた。

夏目のウチは裕福になり、平和になり、幸福になった。夏目家にとっては、まさに「福猫(ふくねこ)」であったのである。

 

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おわりにーー今日の「季語刻々」

今日の季語刻々は

今日の季語刻々は「」で一安心。星野立子という名前にも見覚えがある。句のほうは覚えていない、というより知らなかったと言ったほうが早い。

女房も小生も、「もうボケたかな」と心配した時期もあったが、日常茶飯そういうことが重なって、心配するだけアホラシイと思うようになった。脳ミソのどこかに引っかかっているだけで、時間に長短はあるが、かならず出てくる。

 

そんなことより、今回の台風19号で被災された方々に心からお見舞い申しあげます。どうか元気を出して頑張ってください。いつもエールを送っています。

 

(了)

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